かつて北陸線で活躍したEF70形機関車のパンタグラフ使用側にまつわる思い出話です
信越線横川駅併設の碓氷峠鉄道文化むらに、かつての北陸線用、1963年度新製、EF70形1001番の交流電気機関車が展示されています。
展示位置から見て、横川駅側のパンタグラフは上がっていて、軽井沢側のパンタは下がっていました。
この片側パンタグラフ姿を見て、北陸線時代の交流電化区間、田村-糸魚川で活躍したEF70形機関車のパンタグラフ使用の奇妙さ、違和感の記憶がよみがえってきました。
直江津側のパンタグラフだけを常用していた北陸線時代のEF70形
湖西線の山科-近江塩津間の全線が1974年に開業するまで、大阪方面から北陸へ行くには、東海道線米原経由のみでした。
普通列車は客車列車が主体で、北陸線内はEF70形交流電気機関車が活躍しました。
ここで、北陸線の客車列車、貨物列車を牽引するEF70形機関車のパンタグラフで不思議な光景がありました。
交流機関車は通常、進行方向の後ろ側パンタグラフのみを使用します。
すなわち、東北・常磐・奥羽・鹿児島・日豊の各線での交流電化区間では、常に後位側パンタグラフを使用していて、それが基本と受けとめていました。
北陸線のEF70は直江津側(2位側)のパンタグラフを常用していたのが妙で、違和感を抱きました。
ちなみに、函館線小樽-旭川のED76や、そのずっと後の話ですが、津軽海峡線青森-函館のED79でもパンタグラフを使用するのは北側、下り列車側を常用しました。
直流電気機関車は前後両方のパンタ使用のため、片側パンタのどちらを使うかの疑問はありませんでした。
北陸線では、米原行き列車がホームに入ってきたときのEF70は後ろ側パンタなので安心でしたが、前側パンタを上げた直江津方面行き列車が来た時は一瞬、直流機関車かと錯覚したものでした。
しかし、慣れという不思議な習性があって、直江津側パンタを常用するEF70を見るうちに、「なぜ、いちいちパンタグラフの使用を切り替える必要があるのか?ずっと同じパンタを使用する方が楽でしょう?それで別に問題はないでしょう?」
と、EF70が無言で語っているようにさえ見えてきました。
その後、米原側の1位側、未使用パンタは予備扱いということを知りました。
予備と言っても実質的にまったく使わないので、やがてパンタ自体を撤去してしまわないかと不安を覚えましたが、それは考えすぎでした。
EF81形交直両用機投入後のEF70
北陸線は1969年の直江津までの全線電化後、EF81形交直両用機を投入しました。
そうなると、米原-直江津の全線がEF81で済むことになり、EF70の先行きが心配されました。
1974年度からEF81は直江津側と湖西線直通用となりましたが、米原側のEF70の置き換えはそれから遅れての実施となりました。
EF81の直江津側投入時、EF81も直江津方面列車は前側パンタ使用かとも思いましたが、後ろ側の使用となり、妙に安心した記憶があります。
常磐線と水戸線での交直両用EF80形は1962年登場でしたが、交流電化区間での後ろ側パンタ使用と同じ扱い方でした。
北陸線のEF70とED74の運命
北陸線の福井電化時、約14キロある長大な北陸トンネル事情を考慮してEF70が投入されましたが、北陸トンネルと無関係の福井から北側の区間用にED74が投入されました。
しかしEF70による通し運転の方が効率的ということで、EF70が北陸線の主力となり、ED74の北陸線時代がわずかだったことを思えば、ED74よりは幸運な機関車ともいえます。
北陸線は直流区間に挟まれた形の交流電化になりましたが、交直両用機でなく、交流専用のEF70が田村-糸魚川で使われたのは、当時の交直両用EF80の北陸線版では交流電化事態の特性が活かせず非効率、北陸トンネルの通過、貨物牽引力等の課題があったかと想像します。
碓氷峠鉄道文化むらでEF70‐1001の顔を見る都度、パンタを下げた側の方が何となく安心するのは、交流機関車全体に対するイメージからの慣れによるものでしょうが、先入観とは恐ろしいものです。
再度、パンタグラフが上がっている側の姿を見ると、律儀だったね、お疲れ様でしたと頭の中で声かけしました。