平行普通列車

常磐線と新京成に魅せられた者のブログです

常磐線・千代田線の西日暮里乗換割高運賃問題を考える(その2)

常磐線複々線化と千代田線相互乗入開始の1971年当時の状況を振り返ります

2023年9月18日付け、拙「常磐線・千代田線の西日暮里乗換割高運賃問題を考える」の続編です。

今回は、1971年の常磐線の綾瀬-我孫子複々線完成、千代田線相互乗り入れ開始当時の状況を振り返ってみました。

 

1971年4月20日常磐線綾瀬-我孫子複々線化、千代田線乗り入れ時の状況

常磐線は、1971年の複々線開業前までは、上野-取手の国電区間JR東日本になってからはE電区間)では各駅停車運転でした。

土浦、水戸方面の中距離列車が事実上、上野-取手の快速列車的な役目を果たしていて、上野-取手の停車駅は日暮里、松戸、我孫子に絞られていました。

特急、急行列車、貨物列車も多く、とくに急行「ときわ」は全国一の列車本数がありました。

 

首都圏通勤五方面作戦の中の常磐線

当時、首都圏では輸送力増強に追われており、鉄道を複々線化する首都圏通勤五方面作戦が立てられました。

五方面とは、①東海道線東京- 小田原、②中央線中野-三鷹、③東北線赤羽-大宮、④総武線東京-千葉、⑤常磐線綾瀬-取手、でした。

 

各路線の概要は以下のような内容でした。

東海道線東京- 小田原

東京-大船で横須賀線と線路を分離することと、鶴見(貨物列車は新鶴見)付近から小田原までの貨物線の分離の2つがありました。

②中央線中野-三鷹

将来的には中野-立川を目指すものの、とりあえず御茶ノ水-中野の複々線三鷹まで延伸することを主眼としました。

三鷹-立川の複々線は進まず、その結果、平日の快速は中野-三鷹が各駅停車となっていて、複々線化による立川-東京の輸送力増強は果たせず、とくに速達の意味では特快だけが複々線を活かした形となっています。

東北線赤羽-大宮

京浜東北線東北線高崎線の中距離列車を分離する複々線化で、貨物線は元々、独立していて複々線になっており、これを3複線にするものでした。

総武線東京-千葉

錦糸町-千葉の複々線化と、東京-錦糸町の新線建設でした。

東京駅は地下ホームで、地上ホームまで距離があるものの、秋葉原乗り換えから東京に直通するのは画期的でした。

東京直通前までは、房総の急行列車は両国発着で、東京駅から見ると秋葉原と両国の2回の乗り換えでした。

また、総武線快速横須賀線直通により品川、横浜にも行ける便利さもあり、快速通過駅の錦糸町乗り換えの億劫さはさほど表面化しませんでした。

 

首都圏通勤五方面作戦で常磐線複々線区間は上野-取手でなく綾瀬-取手であること

常磐線綾瀬-取手は、複々線区間が上野-取手でない点が着目点です。

上野-綾瀬については、千代田線が根津・湯島から綾瀬までを肩代わりし、加えて霞ヶ関までの直通運転により、大手町と二重橋駅が東京駅の代役を担いました。

 

北綾瀬の千代田線車両基地の関係で、本来は常磐緩行線である北千住-綾瀬の建設を営団地下鉄が担ったことは、五方面作戦で膨大な資金が必要な国鉄にとって、救いの意味もありました。

その際、千代田線乗り入れによる運賃の割高はまだ表面化していませんでした。

 

常磐快速電車を10両から8両へと2両減車した国鉄の思想

複々線化後、上野発着列車が全部快速の種別に変わりました。

途中通過駅がある本来の快速の趣旨としては北千住-我孫子ですが、上野発着の快速電車は従来の10両から8両へと2両減車しました。

常磐線の首都圏通勤は千代田区直通の千代田線に移行し、上野止まりの快速利用は少ないだろうとの見通しだったためと想定されます。

線路が倍増したとはいえ、輸送力増強による複々線でありながら2両の減車は不可思議でもありました。

中距離電車同様、日中は8両であっても、ラッシュ時はむしろ4両増結して12両編成化すればまだ理解されたところを、逆に終日の2両減車の措置は妙でした。

複々線開業当初は柏を通過していたため、松戸-取手の快速は全般的に空いていたのは確かですが、松戸-上野は2両減で一層混雑してしまいました。

三河島のホームが狭く、日暮里側のホーム延伸が困難だったことも理由にありそうですが、それなら10両編成で継続するとか、12両編成なら三河島では日暮里側の2扉を開閉しないような措置はできなかったかと思われました。

 

1971年4月20日複々線化後の変化

松戸、我孫子、取手の3駅から日暮里、上野方面に行く場合は、快速設定により速達されて便利になりました。

反面、他の快速通過駅では上野直通が皆無になったので苦情が出ました。

 

同じ快速通過駅であっても、北松戸-南柏の場合は松戸での乗り換えを伴うものの、松戸-北千住は快速で早く行ける分、苦情は大きくは表面化しませんでした。

金町-綾瀬も快速通過駅ですが、綾瀬については千代田線直通起点駅であり、千代田線利用でも、北千住乗り換え三河島経由でも割増運賃が発生しなかった分、快速通過は同じく表面化しませんでした。

 

問題は金町と亀有でした。

上野に行くには、北千住で快速への乗り換えが必要となり、地下鉄運賃の別計算、割高問題が、地下ホームから地上ホームへの乗り換えと合わせて表面化していきました。

 

千代田線6000系の話題

当時の営団地下鉄常磐線直通前までは東西線と同じ5000系でしたが、常磐線直通を機に6000系を投入しました。

5000系車両とは一線を画す、前面デザインの斬新さが話題になりました。

サイリスタチョッパ制御というシステムの斬新さも同酔いでした。

対して国鉄は従来型の103系のまま、地下鉄版で新製投入しましたが、従来からの抵抗制御のままでした。

6000系103系には車両内外の印象に大差があり、103系が来たなら乗らず、次の6000系を待つ人もいました。

地下鉄内では抵抗器の発熱で蒸し熱かったものの、当時の地下鉄線内は千代田線に限らず車両冷房は不可、トンネル内冷房までということに疑問を抱かない時代でもありました。

 

割高運賃は問題視せず、千代田線経由なら西日暮里乗換で東京方面にも行けるという考え方

金町、亀有から千代田線経由、西日暮里乗換で上野、東京方面に行くことの割高運賃については、臭いものには蓋ではありませんが、国鉄はあまり前面には出さなかったように思います。

西日暮里経由の場合、運賃が異なること、〇〇円という必要最小限の案内だった印象があります。

そのため、西日暮里経由でも同じ運賃で行けると誤解するケースが多くあり、西日暮里での混乱、乗り換えトラブルがマスコミでも話題になっていきました。

国鉄と地下鉄、今のJR東日本東京メトロは違う会社だから運賃の別計算は当然だろう、そのことは認識されているだろう、直通する便利さは運賃負担増に勝るだろうとの考えが鉄道側に残っていると感じます。

前回の筆者の綾瀬停車など、複々線建設当時にさかのぼっての次元での提示であり、もはや今現在の議論としての土俵にも乗りません。

 

現在では千代田線西日暮里-北千住間を経由して、その前後でJR東日本路線に乗車の場合(JR東日本の指定駅が前提)は、出場するJR東日本の駅の自動改札機でJR運賃を100円割り引いています。

これが千代田線西日暮里乗換割高に対する、鉄道側の運賃配慮措置となっています。

 

現在では、金町・亀有に快速を停めよということよりも、この2駅から千代田線西日暮里経由でも三河島経由と同じJR線経由の運賃計算にすべしということに論点が移っているように感じられます。

同じJR線経由の運賃計算にすることが利用者にとって望ましいことではありますが、現状では上記の100円引きまでの対応です。

 

理解はするが納得はしないというの現象は世の中には多くありますが、そもそも理解さえもされないところにこの問題の難しさを感じます。

今回の運賃問題判決により、今後どのような動きがあるか注視していきたいと思います。